弥生時代の次にやってくるのが古墳時代です。古墳時代も諸説ありますがここでは今から約1,700年前から約1,300年前頃までとします。古墳時代の初期にはシナ大陸の歴史書『三国志』の魏書東夷伝(通称、魏志倭人伝)に倭の女王卑弥呼が登場します。そして古墳時代の末期は西暦600年代の飛鳥時代、有名な聖徳太子や中大兄皇子の時代です。今回はそんな古墳時代の前半の約200年の歴史を見ていきます。
古墳時代の一番の特徴はその名の通り古墳です。古墳は権力者の巨大な墓です。
その形状は丸い円墳、四角形の方墳等いろいろな形が鍵穴型の前方後円墳が有名です。弥生時代に全国に広がっていた様々なお墓の形式が融合して前方後円墳にまとまっていったと考えて良いでしょう。
前方後円墳は北は現在の福島県から南は九州まで広がっています。
お墓の形状は祖先のお祀りの仕方に繋がります。前方後円墳の成立は全国的に統一した祭祀方式の誕生を意味しているのです。そして統一した祭祀方式の誕生は弥生の戦国時代の終焉をも意味しています。長かった戦乱の世は終わりを告げ、日本列島に緩やかな連合政権が誕生しました。
弥生時代の戦乱が終わり、日本列島の大半に広がる緩やかな連合政権が誕生しました。大和朝廷の成立です。大和朝廷の詳しい成立事情は残念ながらわかっていません。古墳時代の初期も同時代の日本の史料は存在しません。よって考古学の成果と後世の歴史書である記紀、そして同時代のシナ大陸の歴史書をもとに考察するしかないのです。
限られた史料から考察すると大和朝廷は特定の勢力が強大な軍事力を背景にして日本列島を統一して成立した政権ではないようです。まず、前方後円墳という祭祀様式を見れば明らかなように一つの地方の祭祀方式を全国に強制したのではなく、多くの地方の祭祀方式を融合するかたちで新たな祭祀方式が始まったことがわかります。それを裏付けるように記紀に記された初代神武天皇の即位にいたる歴史(神武東征)も、軍事力による侵攻ではなく呪術によって相手を屈服させることによって神武天皇は大和に入っているのです。
初代天皇とされる神武天皇は呪術を用いる祭祀王の性格が強いのです。そんな祭祀王は大勢の豪族たちによって大和朝廷の首班の座につくことになったようです。この点は『魏志倭人伝』が卑弥呼が王の座についた経緯を「共立」されたと記しているところが大和朝廷の成立事情をあらわしているように感じます。
大和朝廷は一人の祭祀王を多くの豪族たちが共立して新たな祭祀様式を共有することによって成立したと考えることができます。この大和朝廷の首班となった祭祀王のことを大王(オオキミ)と言います。大王は後に天皇となっていきます。以上の成り行きのため、大和朝廷の成立当初、大王の権力は極めて小さなものであったと考えられます。
極めて弱い王権としてスタートした大和朝廷の大王でしたが、時間の経過とともに段々と性格を変えていくことになります。弥生時代までは群雄割拠の戦国時代だった日本列島が大和朝廷のもとで統一されて力を蓄えていくことになります。大和朝廷の成立から200年以上が経過する頃には朝鮮半島に度々出兵して武功を挙げるなど国際的な地位を向上していきました。そうなると大和朝廷の首班である大王も弱い王権のままではなくなっていきます。
大和朝廷の大王は当時、シナ大陸南部の王朝だった宋に使いを送っています。使いを送った大王は倭の五王と言われています。倭の五王は宋の皇帝に自らの功績を認めてもらうことで国際的な地位の向上を目指しました。
こうした中で大和朝廷の大王は次第に弱い王権から強い王権へと成長していくのです。しかし、大王のこうした姿勢は大和朝廷を支える諸豪族にとっては必ずしも歓迎できるものではありませんでした。
記紀によると倭の五王の武王に比定されている雄略天皇は即位に当たって有力な皇位継承候補者を滅ぼしました。そして即位後は葛城氏の円大臣(ツブラノオオオミ)を滅ぼすなど、有力豪族の勢力を削ぎ落としながら権力を強めていきました。
古墳時代の前半は大和朝廷という豪族連合政権の成立と豪族たちに共立された大王が弱い王権から強い王権へと脱皮をはかっていく中で有力豪族たちと対立していく歴史だったのです。