仁徳天皇陵(大仙陵古墳)
仁徳天皇といえば、大阪府堺市にある仁徳天皇陵を思い受けベル人も多いのではないでしょうか。かつて仁徳天皇陵と呼ばれていた古墳は現在、大仙陵古墳と呼ばれています。大仙陵古墳は日本最大の古墳です。なぜ仁徳天皇陵が大仙陵古墳と呼ばれるようになったかと言うと大仙陵古墳の被葬者が明らかになっていないからです。被葬者が明らかでない以上、仁徳天皇陵と呼ぶのは不適切であるため、大仙陵古墳と呼ばれるようになりました。
第16代仁徳天皇
仁徳天皇は第16代天皇です。仁徳天皇の父は第15代応神天皇でした。応神天皇は九州で生まれてから当時の都だったヤマトに入りました。応神天皇のヤマト入りのルートは初代神武天皇の東征を彷彿とさせるもので応神天皇と神武天皇は同一人物だったという説をとなえる人もいます。いずれにしても応神天皇自身のヤマトにおける立場はかなり微妙なものだったと推測されます。
応神天皇と仁徳天皇父子
しかし、応神天皇と仁徳天皇父子は2代にわたってヤマトに君臨し、国をまとめ上げました。その証拠に現在発見されている古墳のうち、日本最大の古墳が仁徳天皇陵、二番目が応神天皇陵と呼ばれていました。この時代の大和朝廷には巨大な古墳を造ることができるだけの人と資源を供給できるだけの国力が備わっていたのです。当然、内乱状態では巨大古墳を造るような大事業はできなかったでしょう。
民の竈(かまど)
さて、仁徳天皇といえば日本書紀等に記されている民の竈(かまど)の逸話が有名です。民の竈の逸話とは、人家の竈から炊事の煙が上がっていないことに気がついた仁徳天皇が3年間租税を免除したという話です。その間、宮殿の屋根の葺き替えもできなかったため、宮殿のあちこちから雨漏りがあったと言います。そして3年後、人家の竈から炊事の煙が上がっていることを確認した仁徳天皇は満足したという話です。
善政とは減税である
この逸話から日本では太古の昔から善政と言えば減税であったということがわかります。民が苦しい時には減税して民を救うことが善政だったのです。「民の竈の逸話は日本書紀の編者の作り話だ。」と批判する人もいるかも知れません。しかし、この逸話が作り話であったとしても日本書紀の編者たちにとっての善政が減税だったという事実に変わりはありません。日本には悠久の歴史があります。そして、その歴史の知恵を活かすことができるのです。民が苦しい時には減税をする。そんな当たり前の善政をしていきたいものです。